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■ 手のひらの上のサッカー史
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第14部
W杯ロシア大会へ向けて

1.大会最初の郵趣品

2.大会前1000日記念

3.W杯の回想(その1)
4.W杯の回想(その2)
5.W杯の回想(その3)
6.W杯の回想(その4)
7.W杯の回想(その5)
8.W杯の回想(その6)
9.伝説の人々(その1)
10.伝説の人々(その2)
11.伝説の人々(その3)
12.伝説の人々(その4)
13.伝説の人々(その5)

 


小堀 俊一 (こほり・しゅんいち)
1941年生まれ。 
フットボール・フィラテリスト、ビバ!サッカー研究会会員。
40年あまり前から、サッカー郵趣品(切手・はがき・封筒・記念消印などの郵便物資料)を収集し、楽しみながら世界のサッカーを学び続けています。
著書:「サッカー百科展」(1992年・大修館書店)、「サッカースタンプスタジアム」 (2002年・ 日本郵趣出版)


第14部 ワールドカップ・ロシア大会(2018年)へ向けて

13.ロシアサッカー、伝説の人々(その5)
 

 2016年10月28日、「ロシアサッカー、伝説の人々」の第2弾が発行されました。第1弾同様7人がタブ(切手状シール)付きで、小型シートに収められています。

最上段右:ヴィクトール・バニコフ
2段目左:コンスタンチン・ベスコフ  右:二コライ・ラティシフ
3段目左:スラヴァ・メトレヴェリ  右:ニコライ・モロゾフ
4段目左:イゴール・ネット  右:ガリムシャン・フサイノフ


 
◆ヴィクトール・バニコフ(Victor Maksimovich Bannikov)
GK。ウクライナ・サッカー連盟初代会長(1991〜96年)
1938年4月28日生まれ、2001年4月25日没。


ヴィクトール・バニコフの切手とマキシマムカード

 ヤシンを筆頭に、優れたGKを輩出し続けたソ連にあってバニコフは、わが国ではあまり知られていないGKだと思います。(ウィキペディアで調べましたが僅かに「ウクライナ・サッカー連盟」の項に同連盟会長として名前が記載されているのみ)。
 以下は、このブログで紹介している郵趣品の入手先(モスクワ)に依頼して入手した情報です。せっかくですから少し詳しく紹介します。

 第2次世界大戦中、ドイツの電撃的なソ連侵攻により、ウクライナも大きな打撃を受け、バニコフの父は前線で戦死。1946年、疎開先から生地(キエフ西方のジトミル)へ戻り、昼間は靴工場で働き夜間の学校に通う日々だったといいます。 (大戦下におけるドイツ兵とのサッカーの試合の様子は、「ディナモ ― ナチスに消されたフットボーラー」アンディ・ドゥーガン著・千葉茂樹訳/晶文社に詳述されている)
 サッカーと無縁だったバニコフが、見知らぬサッカークラブのコーチからゴールキーパーになることを進められ、決断したのは、1959年、21歳の時でした。
 20歳まで熱中していた陸上の走高跳、バスケットボール、そしてバレーボールによって培われた抜群のジャンプ力や俊敏性は次第に評判になり、1961年下部組織ながら、ディナモ・キエフ(ウクライナ)に招かれるまでになっています。
 ヴァレリー・ロマノフスキーなどがプレイしていたディナモ・キエフは、1961年、モスクワの強豪クラブを抑えてソビエトリーグで優勝するほどの力を備えており、トップチームへの壁は厚く、プレイ経験の乏しいバニコフが昇格できたは、1964年でした。
 その後、同クラブのソビエトリーグ3連覇(1966、67、68年)や同カップ優勝(1964、66年)に貢献しました。
  1965年7月4日、ブラジルとの国際親善試合でソビエト代表チームのGKを務めますが、円熟味を増しつつあったペレに2得点を奪われ、0対3で敗れました。
 バニコフは終世、この試合での自分のプレイぶりを悔やみ続けたといいます。
 翌1966年ワールドカップ・ロンドン大会のメンバーにも選ばれましたが、出場にはいたらず、代表チームGKとして挫折感を味わい、苦悩の日々が続きました。
 1969年秋、右手首負傷により半年以上の療養を強いられたのを機に、トルペド・モスクワへの移籍を決断。
 1972年、同クラブソビエト・カップ優勝に貢献。再び代表メンバー入り、同年開催のヨーロッパ選手権の予選2試合に出場を果たしました(ソ連は準優勝し、GKルダコフはベストメンバーに選出)。
 1974年春、36歳のバニコフは、トルペド・モスクワとスパルタク・モスクワ戦を最後に、選手生活を終えています。この間、ソビエトリーグ258試合、ソ連代表として14試合に出場。現役を退いた後、代表クラスのゴールキーパーの育成を目指し、愛するウクライナに戻りいくつかのクラブのコーチなどしています
 1991年、ソ連邦から独立後、ウクライナ・サッカー連盟初代会長に就任、96年まで務め、ウクライナのFIFAとUEFA加盟に尽力しました。

開催都市巡り
  (11)ソチ  

 2014年に冬季オリンピック開催により、国際的に広く知られるようになった人口約40万人規模ながら、夏季には数百万人が訪れるロシア随一のリゾート都市。
  黒海(西側)とカスピ海(東側)の間にある地域は、コーカサス地方と呼ばれます。
 さらに、コーカサス山脈を境界として、北コーカサス(ロシア連邦領)と南コーカサスに区分され、南コーカサスには、旧ソ連邦から独立したアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの各共和国があります。
 ソチは、厳密にはコーカサス山脈の南にありながら、北コーカサスに属する「ロシア南部連邦管区」の「クラスノダール地方」に属する都市です。   

大会開催都市ポスター絵ハガキ
(11)ソチ
(2015年9月18日発行)


ソチ。オリンピック スタジアム
(収容人数:47,659人)
(2015年11月17日発行)

<ソチとチェチェン>
 1923年に初めてソチを訪れたスターリンは、何度もの流刑によりリウマチを患い、同地の温泉療法により症状が良くなったのを機に、自らの別荘を構えただけでなく、次々と大規模なサナトリウム(保養施設)を設けるなどの整備を行いました。
 その後、ソ連邦やロシア連邦歴代指導者の別荘地が建てられたことでも有名です。
 このように華やかさのあるソチですが、同じ北コーカサスのチェチェンのように、ソ連邦のスターリン政権以来続く厳しい対応(中央アジアやシベリアへの強制移住など)から生じた紛争は長期に及んでいます。
 チェチェン紛争の背景には、カスピ海からの石油・天然ガスを巡る諸外国を含む権益争いの側面
も見逃せません。チェチェンは、カスピ海のバクー油田(現アゼルバイジャン)産出の石油・天然ガスを黒海へ運ぶパイプライン(北ルート)の経由地であり、ソ連邦以来莫大な通過料(外貨)収入をもたらしてきただけに、ロシア連邦としても手放せません。
  ロシアのチェチェンに対する強硬な姿勢は、次第にイスラム原理主義者を巻き込み、ゲリラ化。要人を含む多くの人々が集まるソチも国際テロの標的になりがちです(ソチ・オリンピックの際の厳重な警備ぶりが思い起こされます)。


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