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サッカーマガジン 1975年2月号

天皇杯サッカー全日本選手権・総評
釜本ヤンマー、輝く2冠王
スターを生かした若いチーム力    (2/2)    

大学チームはなぜ振るわないか?
 永大とは対照的に、大学チームの不振はひどいものだった。
 日本リーグが発足してから今回が10年目。初期のころの天皇杯は日本リーグ・チームと大学のトップ・クラスの対決が見どころだったが、いまや大学チームは、日本リーグ1部チームの前には、見る影もない。
 今回もベスト8は、みな日本リーグで占められた。8年前に同じ国立競技場で、早稲田大学が日本リーグ・チームを連破して、天皇杯を高だかと掲げてみせたのは、遠い昔のようである。あのとき早大の主力だった釜本はヤンマーに、森は三菱にいて、ともにチームの中心である。時は移れど人変わらず、日本のサッカーは、東京オリンピック当時の選手たちが年をとるとともに老いてゆくのだろうか。
 日本リーグ勢の天皇杯上位独占は、ここ数年、ずっと続いている現象だが、ことしは特にひどかった。3年連続大学日本一の早大が日本リーグ1部最下位のトヨタ自工に敗れたことは、大学サッカーの地盤低下を象徴しているといっていい。
 早大とトヨタの試合は、名古屋市と豊田市の中間にあるトヨタ・スポーツセンターで行われた。形勢としては、早大が押しっ放しに押しているように見えて、早大の敗退は不運だったと思った人もいたかもしれない。
 早大の選手たち自身が、事実「負けたのはツイてなかったからだ」と思っているようだった。
 試合を見にいった帰りに、名古屋から同じ新幹線の列車に乗り合わせた早大のコーチが「選手たちは負けた気がしないといっているんですよ」と話していた。自分たちが圧倒的に押していた、本当は勝った試合だ、という感じをもったのだろうが、もし、そう考えたのだとしたら大きな間違いである。
 一人、一人の選手を比べたらたしかに早大が上だった。碓井、古田に比べられる選手は(ゴールキーパーの望月博以外は)トヨタにはいなかった。トヨタの守備の中心の小沢も、ゲームメーカーの泉も、攻めの切り札の望月静も年齢を感じさせるプレーぶりだった。体力、走力は、もちろん若い早大がまさっていた。
 そのうえ、トヨタの守備ラインの選手は、反応が遅かった。だから碓井は、相手ゴール近くで思う存分に得意ワザを披露していた。オーバーヘッドのシュートを試みたり、胸で軽妙にボールをさばいてまわり込んでみせたりした。相手のマークがきびしくなければ、碓井は、かなりさまざまなことのやれる選手である。
 問題は、そういう状態であったにもかかわらず、前半10分にトヨタのあげた1点を、なぜはね返せなかったかにある。
 簡単にいえば、早大が「ひらめきのないサッカー」をしたからである。相手の状態や味方の態勢にかかわりなく、早大は同じような攻めしかしなかった。ボールを持ったときに、相手のもっとも弱くなっているところを見破って、鋭く、それを突こうという才覚がなかった。
 これに対して、トヨタは押されてはいたが、中盤の泉からのパスが、早大ディフェンスのもっとも弱い部分を的確につき、味方のプレーヤーもかならず、そこに走り込んでいた。あらかじめ教えられた、型にはまったサッカーをするのではなく、その場その場でひらめく判断を生かそうとしていた。
 だから形勢としては押されていても、決定的なチャンスの数は、少なくとも互角だったと思う。早大が、このことに気がついていないとすれば、大学サッカーの危機は根が深い。
 関東大学2位の法大の敗退にも同じことがいえる。2回戦で雪国から来た札幌大に足をすくわれたのだが、その負けっぷりの悪さは早大よりも、もっと悪かった。
 札幌大は、ブラジルから留学しにきている2人の日系選手が軸になっているが、チームの力は問題にならなかった。
 しかし、法大はボールをとるとウイングに大きくけり、ウイングからゴール前へすぐ折り返して、ゴール前で行きづまるという型にはまった攻めの繰り返しだった。これに対して札幌大は、ブラジル系の2人が、機にのぞみ、変に応じて、なんとか点をとろうという工夫をして成功した。
 ひところのように、大学に人材が集まらないという言いわけは、もはや通用しない。
 早大の西野、法大の中村などは前年の高校サッカーのアイドルであり、すばらしい素質をもったプレーヤーである。
 2人ともこの天皇杯にレギュラーで出ていたが、型にはまった大学のサッカーは、この2人の才能を生かせなかった。
 このまま、大学サッカーの体質を変えることができないのなら、大学チームは、日本のサッカーの貴重なタレントをつぶすだけに終わるのではないか。そうであれば、大学のサッカーは、むしろ、つぶれてしまったほうがいい。

天皇杯の運営は今のままでいいか?
 天皇杯の成績を振り返って眺めてみると、ほかにも、いろいろなことを考えさせられる。
 大学チームの地盤沈下にひきかえ、日本リーグ2部以下の社会人チームの試合ぶりは、悪くなかった。
 日本リーグ2部の電電近畿は1部の永大と引き分け、読売クラブも藤和と2−3の接戦だった。東海リーグの本田技研は早大に延長戦で惜敗、名古屋クラブは関西大学リーグの同志社大に勝った。
 日本リーグのトップレベルは停滞しており、大学サッカーの地盤は沈下しているが、各地域のレベルは、リーグの組織がしっかりしているところほど、確実に伸びてきているようだ。
 法大を破る番狂わせを演じた札幌大の苦労話も印象に残った。札幌大にとっては、11月〜12月の全国大学選手権と天皇杯決勝大会に出てくるのが、強いチームにぶつかる数少ないチャンスであり、一番の楽しみであるという。日本サッカー協会から出るわずかの補助金では、雪国から東京に出てきて長期滞在する費用には、とても足りない。
 そこで毎年、夏休みには全員で知床半島へ出かけてアルバイトをする。サケをとるタテ網のおもしにする土のう作りで働いて、1人最低3万円は作るのがノルマだそうだ。
 柴田監督のそういう話を聞いて3年前から天皇杯参加資格を、全国のすべてのチームに広げたことの意義を、また改めて考えさせられた。
 それ以前の7年間は、日本リーグ上位4チームと大学のベスト4の計8チームだけで天皇杯を争っていた。それが、どんなに間違っていたやり方であったかが、大学チームの敗退、地域社会人チームの台頭、札幌大の苦労話で手にとるようにわかる。
 天皇杯を現在のように、底辺からつながる組織に改めさせるために、協会の若手幹部はかなり骨を折った。外国では、ふつうに行われているリーグとカップのシステムを理解してもらうのが、なかなかむずかしかった。
 新しい方式を、今回で3年続けてみて、ようやく天皇杯改革の意味は、はっきりしてきたし、若手幹部も、骨を折ったかいがあったと思っていることだろう。
 しかし、天皇杯の改革は、まだ十分ではない。それどころか、前回に比べて今回のほうが運営面で退歩した点もある。
 退歩した一つの点は、前年は東京と神戸の2会場に分けて行った準決勝を、今回はまた東京の国立競技場に集めて、1会場で2試合を行ったことである。
 冬の寒いなかで、1日に90分試合を見るのは観客にとって、かなり辛い。それよりも2会場に分けて関西のファンにも見てもらったほうがいいし、努力すれば入場料収入もふえるはずだ、というのが前回2会場に分けた趣旨だった。
 それを1会場2試合に戻したのは、出場チームの一部に、準決勝から決勝にかけてチームが移動するのをきらう声があったこと、バイエルン・ミュンヘンとの試合を控えて、日本代表選手の集合に便利なように考えたのだという。
 しかし、大阪での準決勝に勝って東京に移動するのは、わずか1チームに関係することであり、新幹線のある今日では、移動そのものは、それほどの問題ではないはずである。
 また、日本代表チームの合宿には、勝ち残っているチームの選手は、天皇杯が終わらなければ参加しないのだから、大して影響があるとは思えない。
 天皇杯の試合を各地に分散して行うことは、外国のカップ試合のやり方をとり入れたもので、改革の一つの大きな柱であったはずである。それを、その年その年の都合で簡単に変更するのは、自分たちが主催している選手権の重要性について定見のない証拠ではないか。
 天皇杯の方式に、まだ改革の余地がたくさんある。そのことは、サッカーマガジンの昨年の2月号にも注文を書いたが、耳を傾けてもらえなかったようだ。
 しつこいようだが、もう一度、項目だけ繰り返して主張しておきたい。
 @決勝大会のチーム数を現在の26から32にふやし、日本リーグ1部チームも、決勝大会1回戦から出すこと。これによって日程は、現在より逆に1週、短縮される。
 A試合を各地に分散させて、各地の協会に運営を任せること。藤枝市では、今回も早大−本田技研の試合を引き受けて超満員だったそうだ。準々決勝までの試合は、各地の協会で引き受けて、それぞれ黒字が出るくらいにしたい。
 B元日の決勝戦には7万人を集めよう。そのためには、サッカーのOBは、みんなで協力して切符を売ろう。
 夢みたいなことを書く――と思われるかもしれないが、外国のカップでやっていることを、日本でやれないはずはない、と思う。
 天皇杯を盛り立てること――これが、日本代表チームの強化以上に、日本サッカー協会にとって、もっとも重要な仕事であることを協会役員だけでなく、日本のサッカー全体が、もっとしっかり認識しなくてはならない。

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