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高橋祐幸のブラジル便り・目次
 

高橋祐幸(たかはし ゆうこう)

ブラジル・サンパウロ在住。1933年岩手県生まれ。1960年にブラジルにわたり、日本商社の現地法人(三菱商事)に35年間勤務。退職後ボランティアでトヨタカップ南米代表実行委員を15年間務め、川崎フロンターレ、大宮アルディージャのブラジル代表顧問を約8年間務めた。県立盛岡中学(旧制)で、八重樫茂生(メキシコ五輪銅メダル日本代表キャプテン)と同級生だったことがサッカーに携わる機縁ともなって、日本にもブラジルにも広いサッカーの人脈を持つに至った。


 

 


#21
「イパネマの娘」の作曲家 
(2014/3/28)

★人間国宝トム・ジョビン
  「イパネマの娘」(原名Garota de Ipanema)といえば、日本でもポピュラー音楽の愛好家で知らない人はないほど有名な曲であるが、この作曲家トム・ジョビン(本名アントニオ・トム・ジョビン)はブラジルの人間国宝と呼ばれるほどの至宝の存在である。
  リオの国際空港の名はガレオン国際空港と呼ばれていたが、トム・ジョビンが亡くなったあと「トム・ジョビン国際空港」と改名され、ジョビンの名は永久に残されることになった。
  「イパネマの娘」は1962年に作曲され、アメリカで英語で歌われたのが大ヒットして世界中に広がり、世界のポピュラーソングの代表的な曲として、ビートルズの「イエスタディ」と並ぶ大ヒット曲となった。
  「イパネマの娘」はボサノヴァと呼ばれる高度な音楽理論と豊かな感性で作られた斬新なリズム曲であるが、ボサノヴァのリズムは世界のポピュラー音楽に革命を齎したと言われたほどである。
  ボサノヴァはその後フランスとブラジルの合作で、これも世界的にヒットした「黒いオルフェ」という映画でもバックミュージックに使われ、さらに世界に知られるようになった。
  ジョビンはチェロ奏者ジャッキス・モレレンバウン夫妻と大家族ユニットを組んで世界中をツアー公演して回り、1986年には日本公演もして日本にも多くのフアンを作った。

★シュラスカリアで知り合う
  以上は音楽愛好家ならだれでも知っているトム・ジョビンの姿だが、実は私がリオのイパネマ海岸に近いユダヤ系IT産業の会社社長の特別補佐役として働いていた1900年代後半のころ、社長のお伴でよく行ったシュラスカリア(ガウチョ式の焼肉屋)で店の常連だったジョビンとよく顔を合わせた。社長と親しかったジョビンとテーブルを一緒にして、シュラスコとおしゃべりを楽しんだものである。
  そのころ、私は恥ずかしながらポピュラー・ミュージックについての知識があまりなかったので「イパネマの娘」も「トム・ジョビンという名」も知らなかったが、世界を股にかけて公演した彼のいろいろなエピソードを聴くのが楽しみで、社長と一緒でなくともジョビンに会えるかなとシュラスカリアに通ったものだった。
  TOM JOBINは、とても気さくで、世界一の人気者であることを感じさせない人柄だった。ジョークまじりのおしゃべりで、旨いシュラスコの食べ方とか、作曲の苦労話とかを聞かせてくれた。
  その人柄のせいでTOM JOBINと親しかったという人が、いっぱいいて、ウソカマコトか、いろいろの人たちが、アミーゴであることを懐かしげに話して自慢している。それほど、ブラジル国民に親しまれている存在である。
  ずっと後になってのことだが、サンパウロの我が家の離れのカラオケルームの棚にジョビンと並んで写した写真を小さな額にいれて立て掛けてあったのを、日本から来た若い女性たちが見付けて「わぁナンデェ、貴男がトム・ジョビンと一緒に写っているのですかぁ。ワァ、スッゴーイッ」と歓声をあげたので私の方がビックリ。その時はじめて私はトム・ジョビンが世界の音楽家スターであることと、ブラジルの人間国宝であることを知ったのである。
  以来私はその写真を我が家の「お宝」として、カラオケに来る友人・知人たち誰彼かまわず自慢の種にして「アミーゴ・トム・ジョビン」を吹聴し続けている。
(2014年3月記)

トム・ジョビン(左)と筆者。リオのシュラスカリアで、1987〜88年ごろ。



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