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(サッカーマガジン1972年1月号 牛木記者のフリーキック


杉山のフリーキック

 日本リーグの試合がおもしろくないという。たしかに、その通りだが、それでも日本最高のプレーヤーによる試合だから、中にはいいプレーもある。自分でサッカーをやっている若い選手にとっては、必ず得るところがあるはずだ。 だから、もっとみんなが試合を見に行くべきだと思う。
 71年度後期の日立対三菱の試合は、はじめの75分間は、「これが日本リーグか」と思われるほど、ひどい試合だったが、最後の15分間に急に盛り上がった。
 後半30分に、三菱が相手のゴール前、ななめ45度のペナルティエリアすぐ外でフリーキックを得た。杉山のキックは、日立の守備の壁の頭上を抜き、わずかにカーブしてネットの右上方に入り、三菱の先取点となった。実にあざやかなフリーキックで、これを見ただけでも、入場料を払っただけの価値は十分にあった。
 まず日立の壁の作り方をみよう。日立の選手の背が低いことが、頭上をねらわれた原因ではあるが、壁の作り方も不手ぎわだった。最初ボールの近くに並んでいたが、三菱側は主審に要求して壁を下げさせた。そのために壁の作り方が乱れてしまった。初めから10ヤード (9b15) ぎりぎりの線で、しっかりした壁を作るべきだったと思う。
 壁のいちばん外側の守備者は、近い方のゴールポストとボールを結んだ線より外側にはみ出して、首を回して、内側の肩越しにポストが見えるようにカバーしなければならないのに、三菱の二宮監督がベンチから見ると、壁とポストとの間に、すき間があるほど、壁がずれていたそうだ。
 また、相手がボールをける瞬間に、壁を作っている選手は “ぐっ” と前へ向かう感じでなければならないが、実際には、無意識にボールをよけるような動作をしていた。
 杉山は、このような守備の乱れにつけこんだ。三菱では、このような場合に、
「直接ねらえるようなら杉山に決めさせる。ねらえなければ、パスをして次の策をとる」
 ことになっているという (二宮監督の話)。杉山のフリーキック
 
このときは、右サイドにはキッカーの杉山だけがいて、他の三菱のプレーヤーは、みな左サイドにいた。日立が逆サイドヘの展開に気をとられたのは当然だろう。
 そこへ、片山がななめ後方から走り寄ってきて、杉山からのパスを受けようとする動きをみせた。その瞬間、杉山のキックが、日立の壁の頭上をかすめたのである。
  一つのフリーキックからだけでも、このように、さまざまなことを学ぶことができる。
 このあと、日立が2点を連取して逆転勝ちした。
 そのプレーも、なかなかおもしろかったのだが、ここには、そこまで説明し切れない。だから、本当にサッカーの好きな人には、やはり競技場にいって、自分の目で見てもらうほかはない


報道委員会はないのか

 11月に東京でバスケットボールのアジア選手権大会が開かれた。これはミュンヘン・オリンピックの予選も兼ねていて、日本のバスケットボールは、みごとに全勝優勝して、ミュンヘンヘの出場権を獲得した。
 前回、メキシコ・オリンピック予選で敗れて以来、日本のバスケットボールが、選手強化だけでなく、協会の組織の刷新や観客動員、ファン・サービスなど、あらゆる面にわたって立て直しに努力したようすは涙ぐましいほどで、メキシコの銅メダルにあぐらをかいたサッカーとは対照的だった。それだけに、バスケットボールの成功に、心から敬意と祝意を表したい。
 今回のバスケットの大会で、ぼくたちスポーツ記者が特に感心したのは、報道サービスである。
 協会外のある人が、記録をとじ込むファイルを作って報道陣に配ろう ―― というアイデアを出したら、素直に耳を傾けて実行した。記者席の片隅には、責任のある、世なれた役員が、いつもすわっていて、記者たちの意見をきき、試合のあとのインタビューをアレンジし、記録の配布 (これは若い学生たちが担当した) に手落のないように気をくばっていた。
 完全だったとはいえないにしても、ジャーナリズムの公共性を評価し、バスケットボールを正しく知ってもらい、できるだけ大きくとり上げてもらうように、組織を作って誠心誠意努力していた。
 報道サービスとは、新聞記者に飲ませたり食わせたりすることではない。記者が欲しいのは、正しく公平な情報であり、それを間違いなく、早く提供することが最大のサービスである。
 サッカーのメキシコ・ワールドカップの報道サービスは、国際スポーツ記者協会 (AIPS) から特に感謝状をもらったが、あのときの情報提供システムは、ほぼ完全に近かった。
 日本蹴球協会が、ようやく機構改革に乗り出し、九つの委員会を作ることになったが、この中に “報道委員会” がない。69年11月にクラーマーさんが、協会の改革を提案したときの案では、七委員会が考えられていて、その中にはちゃんと “報道委員会” がある。
 聞くところによると、報道関係は “渉外委員会” に担当させるつもりだそうだが、委員会の数をふやしても “報道” は削り、片手間で片づけようという姿勢に、日本のサッカーの “パブリシティ” に対する理解の程度がうかがえる。


審判を審判する

 和歌山の国民体育大会へ行って、新宮市のサッカー会場を1日だけのぞいたら、「審判がひどくてね」という人が、何人もいる。負けたチームのコーチやプレーヤーがいうのは、いつものデンで、偏見のかたまりみたいなものだから、聞き流すのだが、勝ったチームの有名な先生方も首をかしげているし、記者席のベテランも「なんとかしなくちゃ」と嘆いている。
 ぼくが見た試合の主審も、ひどく出来が悪かった。“みな日本協会登録” の審判員で、日本に7人いる国際審判員のすぐ下、つまり1級の審判なのである。みな顔見知りの人たちだし、審判の苦労もよく知っている。
 選手たちが文句をいう筋合いではないと思っているから、ぼくも具体的な悪口は書きたくないのだが、だれか第三者がとり上げないと、「あれでいいのだ」と、そのまま通ってしまうのではないか、と心配だ。一応、警告だけはしておきたい。
 新宮に、元国際審判員の村形繁明さんが来ておられて、線審を勤めていた。村形さんは、58年に東京で第3回アジア競技大会があったときに、台湾対韓国の決勝戦を担当して、あざやかなフエを吹いた。いまでも、あのときの印象は鮮烈である。日本人の審判員で、はじめて国際試合の主審を3回以上つとめ、FIFA (国際サッカー連盟) の審判胸章をもらったのが、村形さんである。
 その審判界の長老が、わざわざ国体にきて旗を振ることはあるまいに ―― と思ったが、あとになって、ははあん、と分かった。日本蹴球協会の機構改革が発表になってみたら、審判委員会を、村形さんが担当することになっている。村形さんが新宮に来たのは、その伏線だったわけである。
 しかし、それにしても村形さんが、線審として自分で旗を振るのは間違っていると思う。日本蹴球協会の審判委員会が、FIFAや外国の協会のレフェリーズ・コミティーにあたるからで、審判員を評価し、試合担当の割当を決め、競技規則の解釈統一などを扱うのであれば、そのメンバーが現役の審判員であるのは適当でない。自分で自分の能力や業績を評価することになって、公正は期し難いからである。
 それとも、日本の審判委員会は、審判員同士の親睦をはかり、おたがいに技術を研修し、あるいは審判員の待遇改善をはかるための組織なのだろうか。それならばイギリスの審判協会のようなものだと思う。審判協会は蹴球協会とは別のものである。審判を審判する協会の委員会が、“仲間ほめ” の機関であってはおかしい。それでは、日本の審判は、いつまでもうまくならないだろう。

 

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