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忙しすぎる日本サッカー ムルデカ参加はなぜもめたか? 
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(サッカーマガジン1967年9月号) 


トラブルはこうして起った!

 さて、ことしのムルデカ参加がトラブルを起した経過を箇条書きにすると
 (1)過去3年続けて日本が2軍を送ったためマレーシアの協会、在留邦人などから不満が起き、また日本大使館や日本の関係者の中からも優勝をねらって1軍を送るべきだという意見が出てきた。(協会機関誌64号、下村監督報告書参照)
 (2)昨年8月のムルデカ大会と12月のアジア大会のとき、ラーマン首相が野津会長らに次回から1軍を送るよう要望、マレーシア協会は2軍なら招待しないと表明した。
 (3)ことしの2月、日本協会が発表した事業計画案によれば、日本代表の1軍は3月に南米に遠征、8月にムルデカ大会に参加することになっていた。(このころ日本からマレーシア協会に送った手紙に、「ムルデカ大会には1軍を送る予定」と付記している)
 (4)3月の南米遠征が交渉不調でご破算になり、その後7月にペルーに遠征する案が出てきた。
 (5)5月28日の協会評議員会で決まった事業計画では、ムルデカ参加は姿を消し、7〜8月に1軍は南米、2軍は台湾に遠征することに変わっていた。(これは新聞発表されなかった。協会機関誌66、67、69号参照)
 (6)マレーシアは日本が参加するものとして準備し、参加国に日本をふくめて再三新聞発表をし、7月14日には日本をふくめて組合せを決めた。


おくれた不参加通知

 (7)マレーシアは2回にわたって参加確認をさいそくしてきたが、日本が不参加の通知を出したのは7月17日だった。
 (8)7月20日駐マレーシアの甲斐大使から外務省を通じ、両国の友好をそこなわないよう日本の再考を求める電報がきた。
 (9)7月21日の常務理事会で日本蹴球協会は、南米から小城、杉山、釜本を呼び返して台湾遠征組に加えてムルデカ大会に送る案を決め、甲斐大使にあっせんを依頼した。
 (10)7月28日にマレーシアは「日本がベスト・メンバーで参加するのでなければ受け入れられない」と、日本の不参加を認めることにした。
―― 結局は、マレーシアから日本が拒否された形に終わったのだが、ことの善悪は読者の判断にお任せしよう。
 ただ、南米遠征は体育協会から補助金が出ている関係で中止できない事情があったのではないかと推測されること、ことしの最大の目標は10月のメキシコ・オリンピック予選にしぼっているので、選手強化のために南米遠征のほうが有効だと協会が判断した(ただし、この点には反対意見もあった)ことを、協会弁護の材料として、付け加えて置こう。


新しい時代の協会運営組織を

 さて、最初のシーンにもどろう。
 南米遠征出発の当日に、長沼、岡野両首脳が、マネジャーの仕事をばたばたやっていたことと、今回のトラブルは無関係ではないのだ。
 なにしろ、日本サッカー協会は、有能な人材はひとりで何役もやらなければならないことになっている。
 たとえば、岡野俊一郎氏は、協会の理事であり、事務員であり、渉外係であり、報道担当であり、テレビ解説者であり、機関誌の執筆者であり、通訳であり、指導講習会やサッカー教室の講師であり、日本代表のコーチであり、ご紹介したようにマネジャーでもある。しかも本業は、漱石の「三四郎」にも出てくるお菓子の“しにせ”上野駅前岡埜栄泉の専務取締役なのである。
 ぼくは、日本のサッカーが、こんなに忙しくなったときに、協会が昔のままのやり方をしていたのではダメだと思う。運営組織を作り直して、有能なコーチはプロ・コーチとして専念させ、事務局はこれも有能な有給セクレタリーに権限を与えて、てきぱきと運営しないと、いけないと思う。
 ムルデカ大会参加がこじれたのは、日本が不参加を決定した手続きと理由がいささかアイマイだったこと、マレーシアへ礼をつくして通知をださなければいけないのにその事務が非常に遅れ、また不適当だったこと ―― が直接の原因だった。それというのも、日本のサッカーが忙しすぎるからだ、というのが真相である。
 それにしても――。
 アジアのサッカーとの交流は、もっと大切にする必要がある。ヨーロッパや南米でサッカーが盛んなのは、となり近所の国との試合が非常に人気があるからだ。
 これは、こんどのもめごとの残した大きな教訓だった。

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