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サッカーマガジン 2002年2月20日号
ビバ!サッカー

ワールドカップ史への異考B
戦争を生き抜いた金の優勝杯

 ワールドカップの歴史のなかの話題を拾って紹介している。一つひとつの大会の内容は、ワールドカップの歴史の本で読んでいただきたい。ここでは「おや、そんなこともあったのか」と思われるような話を角度をかえて考えたい。今回は第2次世界大戦後二つの大会から。

トロフィーの隠し場所
 ワールドカップの当初の優勝トロフィーは純金の女神像だった。フランスの彫刻家アペール・ラフローの作品である。両翼を広げた勝利の女神が頭上に八角のカップを掲げている。当時FIFA会長だったフランスのジュール・リメは、ワールドカップ創設を夢見ていたころから、優勝トロフィーは美術的価値の高いものにしたいと考えていたという。
 高さ30センチ、重さ1.8キロ。小さいが美しい。台座の上の女神の足の部分が細くなっていて、受け取った選手が手で握ることができる。創造性の乏しい大きな優勝カップがたくさんあるなかで、ワールドカップのトロフィーは芸術品である。
 1938年の第3回フランス大会の優勝はイタリアだったから、この女神像はイタリアが持ち帰った。その翌年に欧州に戦火がひろがり、第2次世界大戦となった。ワールドカップは中断を余儀なくされた。そのため、女神は12年間、イタリアに滞在することになった。
  戦乱の間にトロフィーが無事だったのは奇跡である。イタリア・サッカー協会のバラッシ副会長が、自宅のベッドのなかに隠して、平和がくる日まで持ちこたえたという説がある。
 しかし、これは話をおもしろくするために作られた伝説のようだ。本当はローマの銀行の金庫に預けてあったらしい。ジュール・リメの回想録には「無傷でイタリア協会のぬかりのない監視のもとにローマにあるという知らせが届いた」と簡単に書いてあるだけである。

銀のFAカップの運命
 あの戦乱のさなかに、ローマの銀行の金庫のなかで純金のトロフィーが無事だったという話は、ぼくには奇跡のように思える。
 日本では、あの戦争で東京は米軍機の無差別爆撃にあって焼けのが原となった。ローマの銀行は大丈夫だったのかな、と思ってしまう。
 実はローマは無防備都市宣言をしていた。市街全体が美術品でできているといっていいような都市だから爆撃されたら貴重な世界遺産が大量に失われてしまう。だから、この町を守るために軍備はしないということにしてあった。だから銀行に預けておいても大丈夫だったのではないかと思う。
 ワールドカップのトロフィーが守られた話を聞くと、戦前の全日本選手権の優勝カップの運命を考えてしまう。
 1919年(大正8年)にイングランドのサッカー協会(FA)から大きな銀のカップが日本へ贈られた。これが日本にサッカー協会が設立されるきっかけになった。戦前の全日本選手権の優勝カップは天皇杯ではなくこの銀のFAカップだった。
 銀のFAカップは、大戦中に姿を消してしまった。記録は残っていないのだが、おそらく銀器供出で政府に取り上げられ、鋳つぶされてしまったのだろう。
 資源の乏しい日本では、戦時中にお寺の鐘(かね)まで政府が取り上げ、鋳つぶして大砲や軍艦を作る材料にした。貴金属もみな供出させられた。FAカップも同じ運命をたどったに違いない。

戦後復興の2大会
 ドイツと日本の敗北で第2次世界大戦は1945年に終わった。ワールドカップを再開しようという気運はたちまち高まり、第4回大会をブラジルで、第5回大会をスイスで開くことになった。
 戦後初のワールドカップに、日本とドイツは参加申し込みができなかった。敗戦国だったためにFIFAに復帰を認められていなかったためである。しかし、イタリアはカップ保持国として出場している。
 「第2次世界大戦は、日本、ドイツイタリアの三国同盟が、英米仏などと戦って三国同盟側が負けたのではないのか。なぜ同じ敗戦国のイタリアは出場できたのか?」
 読売日本テレビ文化センター北千住で開いている「ビバ!サッカー講座」で仲間から、こういう質問が出た。いい質問だ。
 イタリアは最初はドイツ、日本と組んでいたが、大戦が終わる2年前にクーデターが起きて独裁者のムッソリーニが失脚し、新政権が英米側に降伏した。そして逆に英米側に立ってドイツに宣戦布告した。したがって大戦が終わった時点ではイタリアは戦勝国側だったというわけだ。
 戦後初の大会は、戦禍の外にあって余力十分だった南米勢の争いとなりウルグアイが優勝した。
 戦後2回目のスイス大会には、日本も予選に参加し、ドイツが奇跡の優勝をとげた。戦後2回の大会でワールドカッブは復興した。
この大会のあと黄金の女神像は、ジュール・リメ・カップと呼ばれることになった。


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