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サッカーマガジン 1995年2月15日号

ビバ!サッカー

阪神大震災とサッカー

 「風光美しく、気候穏やか」と、いつも書いている兵庫県南部、淡路島の北側に、とんでもない大地震が起きた。神戸を中心に広い地域でビルが倒れ、火災が燃えひろがって、5000人以上の方がなくなり30万人以上が住む場所を追われた。そのとき、サッカーの好きな人たちはどうしていたか?

☆神戸がひどい!
 先週号に書いた「むさしのFC」の「ごちゃまぜサッカー」を見て兵庫県加古川市の大学に戻り、宿舎で寝ていたら明け方に「どどーん」と来た。
 寝呆け眼でスイッチを入れた枕元のラジオが「この地震による津波の心配はありません」などと言っている。それで安心して、また布団を被って寝てしまった。1995年1月17日の午前5時46分ごろである。あれが、こんな大災害になるとは、夢にも思わなかった。
 勤め先の大学のある加古川は、震源地から30キロくらいしか離れていない。しかし、揺れが大きかった割には、大きな被害はなく、余震が気味悪いだけだった。研究室では、本が本棚から崩れ落ちていたが、宿舎の方は、冷蔵庫の上から胡椒のビンが転げ落ちたくらいだった。ただ、電話はほとんど通じなくなった。
 「神戸がひどい」と気が付いたのは、間の抜けた話だが、翌日になってからである。テレビの画面で、やっと、ことの重大さに気が付いた。
 神戸は、日本のサッカー発祥の地の一つである。1920年代から御影師範や神戸一中が全国に名を馳せた伝統がある。
 また、少年サッカーの育成を長年続けてきた社団法人神戸フットボール・クラブの所在地である。神戸FCは、Jリーグ入りをめざすヴィッセル神戸の下部組織を引き受けることになっている。
 そういうわけで、神戸にはサッカーの先輩や友人がたくさんいる。
 「みな、どうしただろうか?」と、にわかに心配になってきた。

☆希望ヘシュート
 電話が使えないので、ただ心配しているだけだったが、3日後に神戸の友人から大学に「神戸のサッカー関係者は無事」と伝言が入った。宿舎の電話より大学の電話の方が先に通じるようになった。
 「無事」といっても命が助かっただけで、被害を受けた方は、おおぜいいるに違いない。また「関係者」というのは、協会の役員や主な指導者のことで、サッカーの好きな子どもたちやファンのなかには犠牲者がいるかもしれない。
 もちろん生活に精いっぱいで、サッカーどころではないだろう。
 あれこれ考えて、明るい気持には、なれなかった。
 ところが――。
 1月22日付けの読売新聞兵庫版に、神戸市中心部の小学校で子どもたちがサッカーをしている写真が大きく載った。「希望ヘシュート」「不安と恐怖に負けないで」と見出しがついている。今まで話をしたこともなかった子どもたち同士だが、避難所の小学校で、いっしょになってボールをけりはじめたという。
 家が倒れたり、燃えたりして、親たちは落ち込んでいるが、ボールをけっている少年たちには笑顔が戻っている。
 そういえば、第2次世界大戦の最中だったか、戦後だったか、ヨーロッパの子どもたちが、廃墟のなかで元気にサッカーをしているシーンを映画かなにかで見た記憶がある。
 ボール一つで友だちを作ることのできるサッカーは、苦しいときに希望を作るスポーツでもある。

☆追悼、成文慶氏
 だが、すぐ続いて悲しいニュースも入った。
 ぼくと、同じ年代で、関西大学の名プレーヤーだった成文慶さんが、地震の犠牲になっていた。神戸の市街地に住んでいたので、心配はしていたのだが、やはり倒壊した建物の下に埋まっていたらしい。成文慶は、在日朝鮮蹴球団で活躍し、監督もつとめ、在日朝鮮人体育連合会の幹部として熱心に仕事をした人だった。
 何年か前に出身地の神戸に移って、しばらく会えないでいたが、ぼくが兵庫の大学に勤めるようになると「ヴェルディの試合の切符が手に入らないか」と電話を掛けてきた。サッカーの切符は、旧交を温めるための名目で、やがて、いっしょに飲むために加古川にやってきた。
 さる11月には、神戸で開かれた民族教育についてのシンポジウムに、ぼくをパネリストとして呼んでくれた。
 朝鮮高校のサッカー部が日本の高校チームといっしょに大会に出たいという問題が、与えられたテーマだった。ぼくは民族教育の専門家ではない。また政治的な問題について、彼とまったく同じ考えでもない。
 そんなことを承知の上で成文慶は、ぼくを仲間に加えた。真面目で堅い信念を持っていたが、他人の意見にも耳を傾け、丁重に、粘り強く議論をしてくれる男だった。
 あの大規模な災害が、サッカーだけを容赦するはずはない。しかし、成文慶のような、すばらしい男を奪うとは、あまりにも非情である。


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