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サッカーマガジン 1977年9月10日号
時評 サッカージャーナル

二人の先輩の逝去

沖さんと中国問題
 この夏に、すぐれたサッカー界の先輩二人を失った。早大OBで昭和2年、上海の極東大会の日本代表選手だった轡田(くつわだ)三男氏と、東大OBで日本サッカー協会常務理事、前事務局長の沖朗(おき・あきら)氏である。
 お二人とも、日本のサッカーのために、すでに十分な功績を残されていたが、同時になお、やりかけの仕事を抱えていて、その途上に亡くなられた。いまは謹んでご冥福を祈るほかはないが、日本のサッカーのために、実にくやしいことである。
 サッカーのプレーヤーとしての経歴からみても、またサッカーの好きな社会人としての貢献の点でも、そしてまた、もちろん年齢の上でも、ぼくははるかに弱輩である。したがって、轡田さんについても、沖さんについても、追悼文を書く資格は、ぼくにはない。ただ、ある面では、だれよりも深く、立ち入った接触をさせていただいたこともあり、日本のサッカーの歴史のために、書き残しておかなければならないこともあるので、ここに、その一部を書くことを許していただきたい。
 沖さんは、1971年に三菱系の会社の重役の地位をなげうって日本サッカー協会の事務局長に就任された。当時の事情をぼくは本誌の1971年8月号に「大物事務局長がんばれ」と題して書いている。要するに当時のサッカー協会は改革の必要に迫られており、そのために沖さんが送り込まれた――ということである。
 沖事務局長は4年で退任され、いま東京の巣鴨に人工芝のサッカー場をもっている三菱養和スポーツ・クラブの設立に努力された。協会改革のほうは、曲折はあったが、その後に実現して、現在の長沼専務理事を中心とする新体制が生まれている。沖さんは協会改革の捨て石の役を、目立たないが実に見事に演じられた。目立ちたがり屋さんの多いスポーツ界で、これはなかなかできないことだ。
 沖さんが事務局長在任中に手がけた仕事の一つに、日本と中国とのサッカー交流の再開がある。ここでも沖さんは捨て石役だった。
 1972年のことだが、当時の中国のサッカーは世界の孤児だった。FIFA(国際サッカー連盟)から脱退しているので、FIFAの規則で加盟国は中国と試合ができないことになっていたからだ。
 8億の人口をもち、サッカーがもっとも盛んなスポーツであるこの国を世界の仲間はずれにしておくのは間違っている。しかも中国のほうはFIFAの規則にしばられないから、いわゆる“人民交流”の形で日本のチームを招待したり日本を訪問したりする。日本サッカー協会を無視して、こういう交流をされるのは困るが、かといって協会が表面に出るのも都合が悪い。協会は当時、そういうジレンマに陥っていた。
 ジレンマを打ち破るには、前向きの決断が必要だ。その決断を沖さんがした。日本サッカー協会が中国を認めること、そして中国のFIFA加盟に努力すること、そのかわり、中国側にも日本サッカー協会の権威を認めさせること――である。
 その話し合いをするためには、まず中国側と接触をしなければならない。しかし当時の中国は「日本サッカー協会を相手にせず」という態度だ。そこのところを、どうするか、である。
 たまたま、現在、日本サッカー協会副会長をしている藤田静夫氏が、サッカーとは無関係の体育使節団のメンバーとして、北京を通過する機会があった。いや、正確にいうと、そういう機会を無理してつくった。そこで藤田氏を中国サッカー協会の役員と会わせる必要があった。1972年の11月のことである。

井戸を掘った人
 藤田静夫氏が日本サッカー協会を代表する立場で中国側と会うには、日本サッカー協会が“一つの中国”を前提にする必要がある。それが中国のほうの原則である。
 日本サッカー協会も“一つの中国”の原則を認めることには、踏み切っていた。11月5日の理事会の決定事項だった。ところが、なにを恐れてか、この決定をはっきりとは公表しようとしない。だが公表できないような決定では、中国側には理解できない。
 藤田氏の加わっている使節団といっしょに、ぼくも旅行していたのだが、そういうわけで北京に行っても、藤田氏が中国サッカー協会の代表者と会えないのではないかと、ひそかに心配していた。
 そこで、そのとき北京に滞在していた日中文化交流協会の白土事務局長に事情を説明してあっせんを依頼する一方、東京の同僚の記者に「協会の決定を新聞に出すよう、沖さんに伝えてくれ」と連絡した。
 11月18日付の読売新聞に「日本サッカー協会が中国を支持してFIFAに書簡を送る」というニュースが載っている。藤田静夫氏が北京で、中華全国体育総会の朱仄、宋中両氏と異例の会談をしたのはそのあとである。
 その後、沖さんに「特ダネは困るよ」といわれたことがある。ぼくとしては協会が正式に発表してくれたほうがよかったので、好んで読売新聞の特ダネにしたわけではなかった。
 FIFAは1974年に、加盟国が中国と試合をするのを認めることにした。そしてことしは、北京の国際大会に日本も招待された。いまになってみると、沖さんの決断の方向が正しかったことは、ますます明らかである。
 故周恩来首相が好んで引用したといわれる「水を飲むときに、井戸を掘った人を忘れない」という中国の言葉を思い出してほしい。沖さんは、井戸を掘った中の一人だった。
 轡田さんは、協会の雑誌『サッカー』の編集責任者をしておられた。ぼくは、その手伝いをして、ずいぶん、いろいろ勉強させていただき、ご迷惑もかけた。黙って井戸を掘り、水は他人が飲むにまかせておく、といった方だった。
 協会の雑誌が、いまはひどくお粗末なものになってしまったのは残念だし、轡田さんにも申し訳ないことである。轡田さんの思い出は、また別に書く機会を得たい。


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