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(サッカーマガジン1971年2月号 牛木記者のフリーキック


2部リーグのすすめ

 東海の雄、トヨタ自工と、関東の異色チーム甲府クラブが、日本リーグの入替え戦に挑戦したが、こんども昇格できなかった。リーグにはいっているチームは、強い相手との試合ともまれているし、選手の補強もやりやすい現状のままでは、下から日本リーグに昇格するのは、むつかしいだろう。
 関東、東海、関西には、それぞれ地域リーグがある。まずこの3地域リーグの優勝チームが話合って、第2リーグの試合をやってみてはどうか。1970年度の場合なら甲府クラブ (関東)、トヨタ自工 (東海)、田辺製薬 (関西) の3チームでリーグをする。その優勝チームを、日本リーグの最下位と入替えるのが合理的だと思う。社会人大会と日本リーグは別の組織だと考えるのである。
 社会人大会の上位2チームに日本リーグ入替え戦出場の権利を与える現在のシステムを不合理だという人は多い。
 社会人大会には、たとえば関東リーグからは上位6チームが出場できる。これは、ひどすぎる話である。上位チームにとっては、日本リーグにつながる組織としては関東リーグは、ほとんど意味がない。その結果、関東リーグの後期には、上位チームは、リーグの試合よりも社会人大会のために調整している。はなはだしいのは、リーグの後期には、仕事の都合でほとんど出場しなかった選手が、短期決戦の社会人大会に出て、主力になって活躍することなる。
 日本リーグを現在の8チームから10〜14チームに増やす案がタナあげになっている理由の一つには、社会人大会の上位がはいってくるという現状では、入ってきたチームが長期の全国リーグに耐えられるかどうか不安だということも、あげられているそうだ。
 そういう意味でも、第2リーグを作ったほうがいい。ただ、協会が第2リーグを作ってくれるだろうと、手をつかねて待っていたのでは、いつまでもできはしない。
 日本リーグを作るときに、協会の実カ者は必ずしも賛成でなかった。しかし各チームが集まって自分たちの力でリーグを作って認めさせたのである。リーグは、自分たちの力で作るものだ。


禁煙のすすめ

 ブラジルのペレとサントス・チームが、12月の18日に東京に来た。香港遠征の帰途、乗り継ぎのため立ち寄ったもので8時間ちょっと東京にいただけだが、そのとき改めて気がついたのは、彼らがぜんぜん、たばこを吸わないことである。
 スポーツの選手にとって、たばこが害あって益のないことはだれでも知っている。少しでも害のあることは、やらないのが一流スポーツマンの心がけである。
 日本のスポーツのコーチが、トレーニング・シャツ姿のままたばこをくわえたり、はなはだしきは、ベンチで一服つけたりするのを見ると、まことに腹立たしい。テレビに写ったり、雑誌に写真が出るおそれがあるときには平服でも、つつしんでもらいたい。
 ペレたちが、たばこを吸わないのは、プロ選手だから、資本である自分の肉体をだいじにしているのだと解釈することもできる。それもそうには違いないが、それだけではない。アメリカのプロ野球の選手は、酒やたばこをたしなむ人でも、公衆の面前では決して飲んだり、吸ったりしない。自分たちのやってることが、少年たちに悪い影響を及ぼすことをおそれるからである。
 アメリカのプロ野球にウィリー・ウィルスという盗塁王がいた。
 ギターの名手で、オフ・シーズンには歌手として働いた。日本のナイトクラブに出演するため、東京にきて、記者会見をしたことがある。
 いきなり背広をきて、ギターを片手にカメラのフラッシュを浴び、記者団の質問に答えていたが、だんだんと質問が野球の話ばかりになった。
「ちょっと待ってくれ」
 とウィルスがいった。
「この記事は、スポーツ面にのるのか。ぼくは芸能面だとばかり思っていた。スポーツ面なら写真はとり直してくれ」
 ウィルスは、出ていたビールと灰皿を片づけさせて、改めてスポーツマンとしてインタビューを受けた。


サッカー外交の黒星

 ミュンヘン・オリンピックの予選は、ことしの9月〜10月に韓国のソウルでやることに決まった。69年10月のワールドカップ予選がソウルで行なわれたときのことを思い出すと、試合のはじまる前に1点とられてしまったような気がする。地元の観衆の気が狂ったような大声援だけでも、相当のハンディキャップである。
 ソウルで行なわれる予選のグループは、日本、韓国、台湾、フィリピン、マレーシアの5カ国で、これがリーグ戦をして1チームだけがミュンヘン行きの切符を手に入れる。前回、銅メダルの日本にとっては、絶対に負けられないところである。
 この予選を、日本のサッカー協会は、もちろん東京でやるつもりでいたのだが、韓国との誘致合戦で負けてしまった。その負けっぷりたるや、ひどいもので、8月のムルデカ大会のときに、日本の役員がいってクアラルンプールで各国協会の役員を招いてパーティーをやろうとしたけれども、韓国側にみな先手をとられていて、パーティーひとつ開けない状態だったという。マレーシアのある役員のお情けで、一度だけパーティーをやらせてもらったが、その役員はすでに韓国支持にまわっていた人だったそうだ。
 その結果、予選の組合わせを決めたFIFAアマチュア委員会に、アジアサッカー連盟 (AFC) からの委員が「予選は10月に韓国で」という案を出し、認められてしまった。もちろん、日本が知らぬ間のことで、日本は12月のアジア大会のときに巻き返しをはかったけれども、結局ダメだった。
 その間には、いろいろ不明朗な取引きや画策があったようだけれども、ここには書かない。一昨年までムルデカ大会に “2軍” ばかり送って問題になったことがあるが、日本のサッカー外交が黒星続きであることは間違いない。


ごくろうさんでした

 バンコクのアジア大会から帰ってきた日本の選手たちに、心から「御苦労さん」といいたい。金メダルは取れなかったけれども、君たちのプレーぶりは立派だった。準決勝、韓国との延長の激闘をNHKのラジオ中継できいて、涙が出そうになった。
 守備の中心になって奮闘した小城選手の姿が、なまなましく、まぶたの裏にうつった。
 10日間に7試合のハード・スケジュール。杉山、釜本は途中で休ませてもらった試合もあったけれども、小城は手を抜くひまがなかった。
 行ってみたわけではないから、新聞に伝えられた記録のうえから想像するのだが、今回のアジア大会は、特にディフェンス・ラインの守備力が、ものをいった大会ではないかと思う。全試合を通じて総得点は45点。1試合平均、ほぼ2点だったが、全23試合のうち19試合が1点差以内の試合だった。味方が1点とれば、それを守らなければ勝つ見込みはないということであり、相手に1点でも与えたら、それが敗戦につながる可能性が非常に強いという状況だった。
 それだけに、小城の肉体的、精神的疲労はたいへんなものだっただろうと思う。大会最高のヤマ場となった韓国との試合で、その体力と気力が燃えつきるまでよく戦ってくれた。
 メダルはとれなかったけれども、この大会によって、小城得達の名前は、日本のサッカーの歴史に大きく輝くものになるだろうと思う。
 クラーマーさんは、よく「勝利に代わり得るものはない」

No substitute for Victory
という。どんなに実力があっても、またどんなに奮闘しても、勝たなければ認めてもらえないというのである。
 クラーマーさんの説は正しいが、ぼくたちは同時に、エンの下の力持ちに、陽を当てることも、忘れたくない。

 

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